はじめまして。国際法務専門行政書士の川添です。
事業国際化アドバイザーで、国際法務専門行政書士の川添です。このホームページを訪れていただき、ありがとうございます。
ここでは、私自身の自己紹介をかねて、 なぜ今のこの仕事を始めたかというきっかけを書いてみます。少し長いですので、お時間にある方だけ読んでいただければ結構です。
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あれは、私が16歳。高校1年生の夏でした・・・。(つづく)
きっかけは、アメリカ高校交換留学。
さかのぼること一年前。中学三年生の15歳の夏。
私は、岐阜県の山奥で「日本の伝統文化を外国人と一緒に学ぶキャンプ」なるものに参加していました。今となってはどこでそのキャンプのことを知ったのかは覚えていません。、中学校の授業では「英語」が一番好きだったので、外国人にきちんと通じるかどうか試してみようと、そう思ったのかもしれません。
その期待は見事に打ち砕かれました。全く通じなかったのです。というよりも、聞こえない。自分ではどうにか英語(らしいもの)を話しているつもりでも、その後の会話が続かないのです。これは相当悔しかったのでしょう。私はこのキャンプから帰った後すぐ「留学しなきゃだめだ」と決意したのでした。
両親は大反対でした・・・。高校生では早過ぎる。大学生になってからでも遅くないのでは。そもそも将来のことをしっかり考えてのことなのか。と、折しもアメリカでは日本人留学生のハロウィーンパーティでの射殺がニュースになった翌年でした。しかし、私は一度決めたらどうしても行きたい。そうして、両親が投げかけた疑問を解決すべく、将来のことも含めて自分なりに再びちゃんと「考える」ことをし始めたのでした。
そして、夏はすぎ、秋になり、冬になろうとした頃まで。ずっと留学についての資料を集め、説明会に参加して話を聞きました。結局高校三年間の留学ではなく、1年間の交換留学で自分自身を試してみようという結論に至りました。これだともし留学先で挫折をしても日本の高校に帰って来れるし、逆に向こうでやっていけるという自信がつけば大学で本格的に留学することもできるはず。こうして十分に考えてだした結論に、両親ももはや反対はしませんでした。中学三年生の冬には交換留学の選抜試験を受け、合格しました。
高校受験も無事に終わり、夏休みまでの3ヶ月間を日本の高校で過ごした後、私はアメリカ・ボストンへ渡りました。ここで1ヶ月のグループでの語学研修を受けた後、学生ひとりずつホームステイ先に送られます。僕は、アメリカ・アーカンソー州の家庭にホームステイし、現地の公立高校に1年間通いました。
学んだことは、英語よりむしろ日本人のアイデンティティー
アメリカのハイスクールライフと日本の高校生活の違いに最初は多少のストレスも感じました。なんというか、それぞれ自己主張が強くとても社交的である反面、どこか他人に無関心だと感じるところもある。自分が満足できさえすれば周りの目なんて気にしない。それは慣れればとても楽だけれど、慣れるまではいつも気をはっている感じ。そんな気がしました。そのうち段々みんな外では虚勢を張って生きているのかもしれない・・・とわかってくるようになって、気持ちも楽になりました。
さて、最初は何を言ってるのかわからず、なるようになれ!と流されるままに時間も過ぎていくうち、3か月が経つころには言葉もおおよそ分かるようになり、学校での友達もできるようになっていました。はっきり言ってこの3ヶ月の苦労と自分へのやり切れなさを思うと、その後の人生の辛さや苦労などは大したことはないと思えることは結構大きな収穫だと思います。
そして1年が経って、アメリカにいる自分がすっかり外国人という意識がなくなってきたころ、非日常がすっかりと日常生活に溶け込んだころ、私は日本に帰国しました。滞在中には、「朝日中学生ウィークリー」誌にお願いして留学体験記を連載していただいていたこともあり、帰国してから以前にまして「異文化理解」 への関心は強くなりました。
今となっては、海外に出たことがある人のほうが日本や日本文化、日本人に対して興味がわくことが多いことが通例であることは知っているけれども、当時としては「大学でもう一度留学しよう」という気もとりあえず無くなって、日本で日本と外国の文化の違いを日本人として研究してみたいという思いが断然強くなっていたことに驚きました。
なぜ私は日本人なのだろう?
日本人・アジア人とは何だろう?
日本人や日本文化の良さとは何だろう?
これがきっかけで私の残りの高校2年間は、日本文化、アジア文化、国際政治経済、異文化コミュニケーションの本の読書に
費やされることになったのです。学校の授業でも英語、世界史、政治経済はしっかりやるけど、理科や数学は全く興味なし!といわんばかり。昔から興味のあることに集中してほかは犠牲にする・・・という性格は変わってないようです。
さて、そうして、高校生向けの懸賞論文や英語スピーチ大会などにも参加するなどして高校生活を過ごすうち、高校三年生の夏休みには再び1か月半のあいだ今度はマレーシアへ向かう国際青年交流団のメンバーとして選抜試験に通り派遣していただくことになりました。
アジアの国際都市マレーシア・クアラルンプールでの短期滞在でアジアの魅力に取りつかれた私は、さらに大学に進学して本格的に「異文化理解」を学びたいと思うようになりました。国際関係学といっても、当時としては誰もしらないし、どこの学校にそれを学べる場所があるのかも知る由もない。それでもいくつかの大学に目星をつけて、ちょうど推薦入試をうければ学科試験もなくて、英語と論述(ちなみにこれは私の大好物)の試験だけで入学できた立命館大学国際関係学部に進学することになりました。
人生を変えた、東南アジア青年の船
大学2回生のときに参加したのが東南アジア青年の船です。総務庁(現在は内閣府)が主催する青年国際交流事業であるこのプログラムに当時の日本人団最年少の20歳で参加しました。シンガポール、マレーシア、タイ、ミャンマー、インドネシア、ブルネイ、ラオス、カンボジア、ベトナム、フィリピン、日本の各国それぞれ30名ほどの青年が集まり、それぞれの国を豪華客船で回りながら交流し、寄港地で異文化を学ぶという日本主催の歴史あるプログラムです。それぞれの国ではホームステイをし、有名な史跡を回り、船内ではスポーツやディスカッションを通して同世代の青年と一緒に時間を過ごせたことは、一生の宝物になりました。
国際関係学とは、政治・経済・文化の各分野について、国家間の比較や世界的な枠組みを通して学ぶ学問。それには日本の制度について深い理解と、社会で通用する英語の読み書きができることが最低条件です。大学では外国語の授業も多く、3,4回生時には英語の授業も多くとれたことは勉強になりました。青年の船から帰国後、3回生に進学する際には専門分野として憲法、経済学、国際法のゼミを受講しました。いずれも国際的な視野の基礎となる「考え方の軸」をもつ上でとても有効だと思ったからです。そして実際、その通りでした。
また、ゼミとは別に専門地域として東南アジアを専攻し、卒業論文は「カンボジアの法整備支援」をテーマに書きました。これがはじめて「法律」と「国際」がつながった瞬間でした。
実際に人の役に立つ学問とは、法律かもしれない。
大学で国際関係学やアジアについて学ぶうち、法律制度への関心、とくに国際取引や貿易制度に関わる法律を深く学びたいと思うようになりました。国際関係学というのはかなりボンヤリした学問で掴みどころがなく、机上の空論的な印象を持っていたのです。もっと実用的な・人の役に立つ技術をもたないと趣味にはなっても仕事には役立たないかも・・・と思うようになったころ。ちょうど「法律」分野への関心が高まってきたのです。
国際的なヒト、モノ、カネ、情報の交流を進めることが、ながい目で見れば、国と国との相互理解と世界平和につながる。そう思った私は、大学卒業後は神戸大学大学院(法学研究科)へ進学し国際私法・国際取引法を専攻しました。同時にその基礎として民法や商法など日本の基本的な法律も勉強しました。ちょうどそのころ、司法制度改革の中で「法科大学院」という新しい制度が誕生するらしいことを聞き、弁護士の資格があれば仕事も便利だと思い、立命館大学に戻って法科大学院に通い弁護士を目指すことにしました。
ここでも国際私法、国際取引法、英米法、英文契約書などを中心に勉強し、夏休みにはアメリカのロースクールのサマースクールにも参加して勉強しました。しかし、2年後に法科大学院を卒業した後の司法試験には合格できませんでした。そこで、当初の目標を変更し、行政書士として独立しようと思い、「行政書士川添国際法務事務所」を立ち上げました。行政書士は、弁護士のように訴訟の手続きはできませんが、契約書などの法的書類の作成はできますし、外国人の入国管理手続のサポートの分野では実績のある資格です。そこで、「外国人入管ビザ(在留資格)手続」を専門とする行政書士としてやっていこう!と決めたのです。
入管ビザ専門の行政書士として
この分野の法律は入管法や戸籍法など限られていますが、実際は奥が深く日々研鑽の毎日です。また、2009年夏には、東南アジア青年の船の韓国版ともいえる韓国主催の青年国際交流「Asia’s Future」(ソウル)にも参加することができ、中国・韓国ほか25カ国のアジア各国の青年と交流することができました。これは、とても大きな刺激になりました。
日々ものすごいスピードで変わってゆく経済状況に加え、少子高齢社会というリスクをもつ日本において「国際化」というキーワードは避けて通れません。「アジア」との関係を強め、同時によき「日本文化」を発信してゆくことがなにより重要です。ただ、言葉や習慣の壁を越えて、日本で生活している外国人と日々出会い、その文化に触れつつ、日本での生活をサポートできる仕事にやりがいを感じています。
また、日本の優秀な商品や人材がどんどん世界に飛び出して、日本のすばらしさを世界に発信するお手伝いをさせて頂けることが何よりうれしく感じます。今後も、日本において、日本にやってくる外国人、世界へ羽ばたき活躍する日本人をしっかりとサポートできる事務所をつくりあげていきたいと思っています。
「地域社会と、世界を、つなぐ。」
今はこれが、当事務所のスローガンです。
行政書士 川添賢史